2008年10月4日土曜日

9月28日の礼拝メッセージ 「生きる意味とは」 Iペテロ 2章22-25節

詩篇63:1神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

「こころ・からだ・たましい」という主題で東海宣教会議を22-24日まで行われていました。多くの先生たちが宣教大会の祈りと準備をして地域の教会に呼びかけてくださいました。ゲストのお一人に柏木哲夫先生(金城学院大学学長)が招かれていました。彼はホスピスの働きで死に行く人(約2500人)を見られたと言っておられました。

彼のお話の中で語られたことで私の記憶に残ったことをいくつかご紹介したいと思います。その中の一つに動物と人間の違いは何ですかということです。柏木先生は、動物と人間の違いは、①宗教があること(動物にはない) ②自殺(動物はしない) ③音楽(動物には音楽がないようです)。

①宗教は、人間のたましいが悟る。②自殺というのは、たましいが病ん結果だそうです。
③音楽は心までしか届かない音楽もあり、たましいに届く音楽があると語っていました。

人間には不安というものがあるようです。人間であるゆえに持つ不安だそうです。人生いろいろな課題があります。それは一度や二度ではない課題です。次から次えと課題がやってきます。そのような中でうまく処理ができればいいのですが処理ができないと、不安神経症になり、「うつ」になって自らの命を絶つ人がいると語っておられました。

不安なことが起こったとき「なんとかなる」と考えることができると助かるそうです。もう一つは「ゆだねる心」を持つことだそうです。ゆだねること、おまかせすることですが、それができる人は助かるようなことを紹介しておられました。

いのちを絶つ人は
①その人は自分の手に負えないような体験をしている。
②そのことは一時的なことではなく、ずっと続くと思ってしまう。
③自分を消す以外に道がないと思う思いに歯止めがかからない。 

そのようにその人の心が痛んだとき、親がいたり、子供がいたり、家族がいたり、信仰があったりして、それが死への思いを止まらせることがあると言っていました。

柏木先生は自殺のことを「やまいが、たましいまで広がった」のだろうと言っていました。
やまいが、自殺という病までひろがらないにしても、人間のほとんどの人が病んでいます。その姿は、新聞みれば一目瞭然です。人間が病んでいますから社会も病んでいる。家族の人間関係も病んでいます。

人間は、からだ・こころ・たましいが全体として一つの存在だと思います。からだ、こころ、たましいの別々なパーツが集まって人間を構成しているのではなく、全体が一つになって構成していると思います。からだが病むとこころも傷みます。こころが傷むとからだが痛みます。人間は有限な肉体と無限はたましいによってこの世に存在しています。こころは肉体の側に入れることができると思います。医者は薬を処方してそれで、こころが楽になります。医者のできる範囲は肉体とこころまでです。たましいに処方できる方はイエス・キリストだけです。

人間は永遠を考えますが、永遠を考えられるのは永遠を感じることのできるたましいが与えられているからです。神に、神の息を吹き込まれ人間だけが、永遠を感じることができます。永遠を感じることのできるたましいにひずみができているときこころでは理解できない痛みや苦しみがおこります。たましいが病んでいるからです。

失望の中で、「こころの痛み」と言いますが、それは、実は「たましいの叫び」だと私は思っています。こころの痛みではなくたましいの痛みなのです。その痛みを消したくていろんなことをします。趣味を持ちます。哲学の本を読みます。恋愛もします。子供を一生懸命愛する人もいるでしょう。最初は新しいことに挑戦しますから、心が生き生きしています。しかし馴れてきたり、それが終わると始めにもどります。「たましいの叫び」が始まります。趣味や学問、恋愛によってたましいは救われないからです。

Ⅰペテロ1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
Ⅰペテロ2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
Ⅰペテロ4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。
Ⅲヨハネ1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

詩篇103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。
エレミヤ31:25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。

聖書には「こころ」が救われるとは書かれていません。「たましい」が救われると述べています。この体は健康な方がいいでしょう。私は、このからだは道具だと思っています。たましいを運ぶ道具でしょう。心は私の考えをまとめたり表現するための道具、感情を用いる道具だと思っています。たましいはどこかにあるのではなく、「たましいが痛む」、「たましいが苦しむ」のですから、たましいは、私を私として存在させている「全存在」だと考えています。簡単に言いますと、東という人物の「たましい」が東という人物の全存在だと思っています。肉体はたましいを運ぶ道具です。たましいが痛むとき私が痛むのです。たましいの存在が目に見えません。たましいが見えるために「からだ」が与えられていると思います。ですからからだも健康な方がよいと思います。

不安や恐れはこころが感じているのではなく、たましいが感じているのでしょう。
Ⅰペテロ1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
とペテロが述べています。

イエス・キリストは、私たちのたましいを救うためにやって来られました。キリストは失われたたましいを救うために来てくださいました。私たちの全存在(たましい)が神のもとに帰ることができるように十字架で道を備えてくださいました。私たちは主キリストの命をいただいて生きるものになりました。ですから信仰をいただいたとき、救われた喜び言葉に出せないほどに平安です。たましいにキリストの救いという平安をいただいたからです。

Ⅰペテロ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

キリストは私たちを「いやす」お方としていのちを差し出してくださいました。ですからこのお方に、人生をおゆだねできるのです。

みずから死に向かうのは、「ゆだねられない心」だと柏木先生が語られました。私たちはいま、たましいをおゆだねして大丈夫なお方を聖書をとおして知ることができました。

今、課題があって、それにつぶれそうになっている人がいるかも知れない。課題のないのがいいと思いますが、課題のない人生はありません。課題はイエス・キリストにおゆだねしましょう。

私たち一人一人、さまよっている私たち羊が、私のたましいの牧者であり監督者の所にかえりましょう。キリストのいのちによって、平安と喜びのいのちでこの世界を生かされていきましょう。生きる意味は、キリストと共にあるときに見出せます。私たちは賛美をしますが、それはたましいが救われた喜びの歌です。歌謡曲は心まで届くでしょう。しかしたましいに届くのは神のすばらしさを賛美するときです。たましいを救ってくださった方への賛美の叫びです。喜びです。我が「たましい」よ主を賛美せよ。

たましいが救われた人の証1.2.3.
教会に存在は、「この世のたましいが救われるよいうに」祈る宣教することです。