2010年3月16日火曜日

2010.3.14 礼拝メッセージ「絶対的な祝福」創世記28:15 東 正明牧師

本日のお言葉はAさんが、新年にいただいたお言葉です。
聖霊によっていただいたお言葉ですから、その通りに信じて、受け入れて、感謝して、歩むことが祝福の基です。「そうです。この言葉を信頼します。」と進むとき祝福を経験します。

ヤコブは、ベエル・シェバに旅だちました。
ヤコブを愛する母リベカによって、兄エサウにかわって、父からの祝福をよこどりしてしまいました。横取りされたことを知った「兄エサウ」は、ヤコブを殺したいと思うほど憎みます(創27・41)。

母リベカは、愛するヤコブを、自分の兄のラバンのところに逃れさせます。そこは「ハラン」という所です。ハランに向かっている道中での出来事です。一日中歩いてきました。疲れました。「石」をまくらにして休みます。
ヤコブは夢をみました。10節からお読みします。
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
この夢を見た場所を「ベテル」と名ずけます。17節で、ベテルを「神の家」「神の門」だと述べています。

19節では、以前はルズであったが、ヤコブは神の祝福によって「ベテル」と呼びました。ベテルそれは神の家、神の門なのです。

ヤコブは夢の中で、天から地に届く「はしご」をみます。それは不思議なはしごです。普通は、はしごは、高いところに上るためにあります。誰でも「はしご」は、下から上に向けて立てかけます。
はしごは低いところから高いところに上るためにあります。しかし、この場所にかけられている「はしご」は天から「地に向けて立てられて」いました。不思議なはしごです。不思議な情景です。上から下に向かってかけられていたのです。

宗教のことを考えてみましょう。
世界中に多くの宗教があります。この世の宗教は、人間が努力して、良い業をして、立派に生きて、救われなさいという宗教です。神に向かって「努力・良い業・立派に生きること」をしなさいという教えです。それは人間が自分の「救いのために」天に向かって「はしご」をかけるようなものです。
犬や猫は永遠を思わないでしょう。動物は神のことや、救いのことを思わないでしょう。人間は神によって創造されましたので、永遠を思う思いが与えられました。神によって「いのちに息」を吹き込まれたものが、神に生きるものとして創られた人間だけが永遠を思うことができるのです。けれども、自分を生きる者に創造してくださった、まことの神を知らないので、「永遠を求めて、神を求めるために、様々な宗教を生み出しています」。宗教をつくるのです。人間がつくる宗教です。

「成長の家」という宗教があります。成長の家は、世界で一番すぐれている宗教だと彼らは言っています。どうしてか、というと、仏教の一番いいところ、キリスト教の一番いいところを、教祖が選んで作った宗教だというのです。皆さんそうだと思ったら、その宗教の罠にかかります。自分が選んだ宗教というのは、ジャスコにでも行って、「自分が、自分に合う服を選ぶようなものです。」選ぶ者の方が選ばれるものより上です。ものを選ぶ時、選ぶ人の価値観で選びます。選ばれるものの方が選ぶ者より低いのです。たとえば教祖さんが、自分の価値観で選んだとする場合、選ぶ側が神より上です。選ぶ側が、神より上ということはあり得ません。選ばれた神は人間以下になる事になります。これでは神は人を救えません。救えない宗教を作って、「はしご」をかけさせようとしています。
いずれにしても、誰でも人間が永遠をもとめています。それは宗教によらなければ手に入らないことを知っているからです。まことの神を知らないために、自分で宗教を生み出しているのです。

こうした人間の「はしご」は天に届きません。どれだけ長いはしごを持ってきても天にとどきません。
神が天から地に向けて「はしご」を伸ばして下さったらどうでしょうか。神が下に伸ばす「はしご」は、地に届きます。

天から地への、「はしご」のことを思いめぐらすとき、私は「主イエス・キリスト」を思います。「わたしは、道だ、真理だ、命だ」とおっしゃるイエスさまを思いました。主イエスは、天から私たちのところに救いの道として下って来て下さいました。
ヨハネ15・16主イエスさまは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と語っています。

救いのために、選んで下さったのは神であって、私たちが選んだのではありません。神が人間の上にあります。神は選ぶ存在。人間は選ばれて救われるのです。

神は、はしごを、天から地に立てかけて下さった。私たちは、天から下って来られた、主イエスさまを知っています。クリスマスです。神は、人となって私たちのところに来て下さいました。上から下への「はしご」となってくだしました。ヤコブは夢の中で、神の使いが天からはしごを上り下りしているのをみました。
ヨハネ1:51に「 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」といいます。
人の子、それは主イエスさまです。 主イエスさまの上を上り下りしているのです。ヤコブが見た天からの下ろされた「はしご」は人の子、主イエスさまなのでしょう。

主が、13節から15節の祝福を約束されました。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

ヤコブは、夢から覚めると、夢をくださった神に応答しました。このベテルでの体験は、ヤコブにとって新たなスタートとなります。ヤコブは、一人ぼっちの荒野で神をあらためて知ることができました。

ヤコブは、これまで、父イサクから神様について聞かされてきたでしょう。ですから神のことは知っていました。神さまは祝福してくれるとことも知っていました。けれども、神の生きた体験を知りませんでした。

神さまは、天からはしごを下ろして、神の存在を見せてくださいました。ヤコブは神との出会いを経験をしたのです。その経験を通して「神」が生きておられると知りました。「神」は、祭壇のある父の「ベエル・シェバ」におられると思っていました。神は父イサクの神だ、と思っていたのです。

ところが、神は、一人ぼっちの荒野にもおられ、「ハランに逃ようとしている」そのような自分に関わりを持って下さることに驚きを持ちました。ヤコブは、神は「いらっしゃる」と荒野で叫んだにちがいありません。
神は、祖父アブラハムの神、父イサクの神であるだけではなく、「私の神」ともなって下さったことを知りました。ヤコブの神となって下さいました。ヤコブは父母を離れて、宿がありません。無宿人です。枕は「石」ころ。そのような場所にいます。さびしい場所。辛い場所。悲しい場所。味方もいません。しかし、この厳しい場所で、「安らぎ、くつろぐことのできるわが家」を見出したのです。
「28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

「わたしが、共にいる、わたしは決してあなたを捨てない」と、お語り下さる神ご自身を、ヤコブは自分の住まいの場所として見出しました。彼はこの場所を「ベテル」=神の家と名づけました。

詩篇90・1「主よ、あなたは世々にわたって、私たちの住まいです」とモーセは語ります。神が私たちの安全な住まいの場所です。

多くの方は、孤独であることを恐れます。誰かとつながっていないと怖いのです。しかし、本当の孤独の中で、神と出会うのです。一人祈り、神に向かう時、神に出会うのです。神が、私たちのまことの住まい、それは決して古くなりません、日々に新しくなります。神は裏切りません。崩れていきません。私たちを見下す事もありません。神にある本当の住まいは暖かい安らぎがあります。ヤコブは、一人ぼっちでいましたが、ベテルで平安をいただきました。私たちも神に出会う時に神の平安をいただけます。
28節「決して捨てない」とおっしゃってくださる方は、私たちの力ある神です。

この方が、マタイ6章34節を語るのです。6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。とお語りになります。「明日のために心配は無用です」。主のお言葉です。信じて受け入れて歩んでいきたいと思います。石ころを、まくらにしなければならないようなことがあったとしても、神はヤコブに与えた祝福を私たちに与えて下さります。ヤコブに与えた平安が私たちに向かっています。主の言葉は真実です。私たちは主にあって、「今日を生きさせていただく、それだけを考えるのです」。マタイ6章31~34節をご一緒にお読みいたしましょう。
主が共にいてくださること、それは絶対的な平安です。

「わたしが、共にいる、わたしは決してあなたを捨てない」といおっしゃって下さる主に今週も心を向けて歩ませていただきましょう。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であり、ヤコブの神が、私の神なのです」。そのように信じてヤコブの次に自分の名を入れて神を信じるのです。私たち教会は知多市にとって「ベテル」です。「神の家」「神の門」なのです。

常滑・原においても私たち教会は「神の門」と呼ばれるのです。

[祈り] 人々は、私たち教会を通して「神」に出会っていかれますように。主の御名で。アーメン。

2010年3月9日火曜日

更新!

知多のぞみキリスト教会のブログを更新しました!とても長い間、ブログが手付かずとなっておりました。今までは、牧師、宣教師、メッセージのみを載せていましたが、これからは教会の日誌のような形もとりながらやっていきたいと思います。これからも末長くよろしくお願いします。

2008年10月4日土曜日

9月28日の礼拝メッセージ 「生きる意味とは」 Iペテロ 2章22-25節

詩篇63:1神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

「こころ・からだ・たましい」という主題で東海宣教会議を22-24日まで行われていました。多くの先生たちが宣教大会の祈りと準備をして地域の教会に呼びかけてくださいました。ゲストのお一人に柏木哲夫先生(金城学院大学学長)が招かれていました。彼はホスピスの働きで死に行く人(約2500人)を見られたと言っておられました。

彼のお話の中で語られたことで私の記憶に残ったことをいくつかご紹介したいと思います。その中の一つに動物と人間の違いは何ですかということです。柏木先生は、動物と人間の違いは、①宗教があること(動物にはない) ②自殺(動物はしない) ③音楽(動物には音楽がないようです)。

①宗教は、人間のたましいが悟る。②自殺というのは、たましいが病ん結果だそうです。
③音楽は心までしか届かない音楽もあり、たましいに届く音楽があると語っていました。

人間には不安というものがあるようです。人間であるゆえに持つ不安だそうです。人生いろいろな課題があります。それは一度や二度ではない課題です。次から次えと課題がやってきます。そのような中でうまく処理ができればいいのですが処理ができないと、不安神経症になり、「うつ」になって自らの命を絶つ人がいると語っておられました。

不安なことが起こったとき「なんとかなる」と考えることができると助かるそうです。もう一つは「ゆだねる心」を持つことだそうです。ゆだねること、おまかせすることですが、それができる人は助かるようなことを紹介しておられました。

いのちを絶つ人は
①その人は自分の手に負えないような体験をしている。
②そのことは一時的なことではなく、ずっと続くと思ってしまう。
③自分を消す以外に道がないと思う思いに歯止めがかからない。 

そのようにその人の心が痛んだとき、親がいたり、子供がいたり、家族がいたり、信仰があったりして、それが死への思いを止まらせることがあると言っていました。

柏木先生は自殺のことを「やまいが、たましいまで広がった」のだろうと言っていました。
やまいが、自殺という病までひろがらないにしても、人間のほとんどの人が病んでいます。その姿は、新聞みれば一目瞭然です。人間が病んでいますから社会も病んでいる。家族の人間関係も病んでいます。

人間は、からだ・こころ・たましいが全体として一つの存在だと思います。からだ、こころ、たましいの別々なパーツが集まって人間を構成しているのではなく、全体が一つになって構成していると思います。からだが病むとこころも傷みます。こころが傷むとからだが痛みます。人間は有限な肉体と無限はたましいによってこの世に存在しています。こころは肉体の側に入れることができると思います。医者は薬を処方してそれで、こころが楽になります。医者のできる範囲は肉体とこころまでです。たましいに処方できる方はイエス・キリストだけです。

人間は永遠を考えますが、永遠を考えられるのは永遠を感じることのできるたましいが与えられているからです。神に、神の息を吹き込まれ人間だけが、永遠を感じることができます。永遠を感じることのできるたましいにひずみができているときこころでは理解できない痛みや苦しみがおこります。たましいが病んでいるからです。

失望の中で、「こころの痛み」と言いますが、それは、実は「たましいの叫び」だと私は思っています。こころの痛みではなくたましいの痛みなのです。その痛みを消したくていろんなことをします。趣味を持ちます。哲学の本を読みます。恋愛もします。子供を一生懸命愛する人もいるでしょう。最初は新しいことに挑戦しますから、心が生き生きしています。しかし馴れてきたり、それが終わると始めにもどります。「たましいの叫び」が始まります。趣味や学問、恋愛によってたましいは救われないからです。

Ⅰペテロ1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
Ⅰペテロ2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
Ⅰペテロ4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。
Ⅲヨハネ1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

詩篇103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇116:7 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。
エレミヤ31:25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。

聖書には「こころ」が救われるとは書かれていません。「たましい」が救われると述べています。この体は健康な方がいいでしょう。私は、このからだは道具だと思っています。たましいを運ぶ道具でしょう。心は私の考えをまとめたり表現するための道具、感情を用いる道具だと思っています。たましいはどこかにあるのではなく、「たましいが痛む」、「たましいが苦しむ」のですから、たましいは、私を私として存在させている「全存在」だと考えています。簡単に言いますと、東という人物の「たましい」が東という人物の全存在だと思っています。肉体はたましいを運ぶ道具です。たましいが痛むとき私が痛むのです。たましいの存在が目に見えません。たましいが見えるために「からだ」が与えられていると思います。ですからからだも健康な方がよいと思います。

不安や恐れはこころが感じているのではなく、たましいが感じているのでしょう。
Ⅰペテロ1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
とペテロが述べています。

イエス・キリストは、私たちのたましいを救うためにやって来られました。キリストは失われたたましいを救うために来てくださいました。私たちの全存在(たましい)が神のもとに帰ることができるように十字架で道を備えてくださいました。私たちは主キリストの命をいただいて生きるものになりました。ですから信仰をいただいたとき、救われた喜び言葉に出せないほどに平安です。たましいにキリストの救いという平安をいただいたからです。

Ⅰペテロ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

キリストは私たちを「いやす」お方としていのちを差し出してくださいました。ですからこのお方に、人生をおゆだねできるのです。

みずから死に向かうのは、「ゆだねられない心」だと柏木先生が語られました。私たちはいま、たましいをおゆだねして大丈夫なお方を聖書をとおして知ることができました。

今、課題があって、それにつぶれそうになっている人がいるかも知れない。課題のないのがいいと思いますが、課題のない人生はありません。課題はイエス・キリストにおゆだねしましょう。

私たち一人一人、さまよっている私たち羊が、私のたましいの牧者であり監督者の所にかえりましょう。キリストのいのちによって、平安と喜びのいのちでこの世界を生かされていきましょう。生きる意味は、キリストと共にあるときに見出せます。私たちは賛美をしますが、それはたましいが救われた喜びの歌です。歌謡曲は心まで届くでしょう。しかしたましいに届くのは神のすばらしさを賛美するときです。たましいを救ってくださった方への賛美の叫びです。喜びです。我が「たましい」よ主を賛美せよ。

たましいが救われた人の証1.2.3.
教会に存在は、「この世のたましいが救われるよいうに」祈る宣教することです。

2008年8月22日金曜日

8月17日の礼拝メッセージ 「弱さの中に現われる」 Ⅱコリント12章:9-10節 (担当:ロナルド ストーラー師)  

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

パウロは弱さを誇っていますが、神の前に弱くなることは神がその人を大きく用いてくださることにつながります。弱くなるということは神を無視した生き方をしていた人が神の前に低くなることです。神に従う生き方をすることをいいます。

主の御前に低くなった3人を紹介します。旧約聖書からモーセ。新約聖書からペテロとパウロです。聖書の中には多くの人は神の御前に低くなり豊かに神の手足(道具)として用いられました。

・モーセ
モーセは、ヘブル人の子どもでしたが、当時のエジプトの政策のなか神の不思議な導きで、王女の息子となりました。彼はおとなになったとき、同胞のところに出て行き苦役を強いられるのを見ました。エジプト人がヘブル人をしいたげ苦しめムチをうっていました。彼はそれを見て、そのエジプト人を殺して砂の中に埋めました(出エジプト2:11-12)。モーセは苦しみを見た時、人間的な考えで助けようとしました。神に頼らず自分の力を働かせました。その事件があってからミデヤンの地に逃れ40年の歳月が流れます。

苦役を負うヘブル人の助けを求める声が神に届いたとき、神はモーセを用いてヘブルの民をエジプトから解放しようと考えます。モーセが神に呼び出されたとき「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです」(4:10)と答えました。ようするに私にはできませんと断っているのです。けれども神はモーセのたらなさを知って用いられます。モーセは信仰の歩みを通して、神の御業を繰り返し教えていただきました。そのような体験をとおしてモーセは神のことばに聞いて従います。モーセは、出エジプトの旅の途中でヘブルの民の不信仰に苦しみます。そのたびごとに神に祈り求めます。助けを求めました。神はモーセを助けて約束の地まで導かれました。モーセが神に、より頼み従うとき、神はモーセを神ご自身の道具として豊かに用いられました。

・パウロ
パウロを見てみましょう。パウロはユダヤ人として高度な学問を受け人間的には強い人で、ユダヤ人から見れば立派な人でした。その熱心さが教会を迫害しました。「サウロは教会をあらし、家々に入って男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた」(使徒8:3)。そのようなパウロがダマスコの教会を迫害するために出かけたとき、その途上で神に出会いました(使徒9:1-9)。パウロは神に出会い信仰をいただきました。第二回伝道旅行のとき、パウロとバルナバは、一行から離れてしまい、仕事をしなかったマルコを連れて行くか行かないかで反目をしたことがあります。結局バルナバはマルコを連れて伝道に出かけました。このようにパウロの性格は、物事に対しはっきりとした態度を取る性格でした。一面厳しい態度です。しかし、神の御前に、明確な悔改めをして従うパウロを、世界伝道へと用いられました。人間にはいろんな性格の人がいます。けれども、神の御前に低くなる人を主が豊かに用いてくださいます。

・ペテロ
ペテロはどうでしょうか。ペテロは主イエスの弟子として従ってきました。ペテロはイエスに「主よ。なぜ今はあなたについていくことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」(ヨハネ13:37)と言いました。しかしイエスはペテロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(13:38)と答えました。おそらくそんなはずがないとペテロは思ったに違いありません。しかし、イエスが捕えられ十字架への道を歩み始めたとき、「その人は知らない」と鶏が鳴く前に三度否定してしまいました。イエスの予告通りになりました。そのようにペテロも恐れをもつ弱い人間でした。しかし、復活のイエスに出会い聖霊の力を受けたとき、主イエスさまの復活を宣べ伝える者に変えられました。ペテロは弱かった。人間的には自分の力に頼るところがありました。その彼がまことに神に頼ること、従うことをさせていただいたとき、主の約束通りにキリストの教会を建て上げる協力者へと用いられました。

見て来た三人に共通していることは、傲慢であったり、失敗の多い者でした。しかし、まことに悔改めをして主に従ったとき、主は主の手足(道具)として用いてくださいました。私たちも神の御前に弱い者、小さな者として低くなり、主の道具として用いて下さいと自らを差し出していきましょう。                      

2008年8月13日水曜日

8月10日の礼拝メッセージ 「キリストの教会と働きを考える」 マタイ16章13-19節

キリストの教会はどのような方法で、何をするために、建てられているのでしょうか。
私は、教会の意味を知らなかったとき「教会へ行く」と言ったことがあります。その頃はわたしの意識では建物が教会でした。大きな建物・ステンドグラスを思い浮かべていました。今はそうではありません。聖書から学び「キリストの教会」について深く理解できるようになりました。


・キリストの教会の土台
マタイの福音書16章13~19節で、ペテロが信仰を告白しています。15節でイエスさまが「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」とバルヨナ・シモンに尋ねます。彼は「あなたは、生ける神の御子キリストです」(16)と答えます。イエスさまはその言葉を受け喜んで、そのように信仰を告白できるのは「天にいますわたしの父」によって告白できたと言います。イエスを主と告白できるのは人間の思いや考えではできません。父なる神と聖霊に導きによって、イエスを救い主と告白させていただけます。

イエスさまはシモンに、あなたはペテロ(岩)だと呼び(18)、そのペテロの上に「わたしはこの岩の上に、わたしに教会を建てます」と語りました。この言葉をペテロ個人の上にという理解をする人々もいますが、福音的な立場では、ペテロが「あなたは神の御子キリスト」ですと信仰告白した、その告白の上に教会を建てると理解しています。このような意味で、教会は、イエスを「救い主」と信じ公に告白し、バプテスマを受けた人々の集まりがキリストの教会です。教会は建物ではなく、信仰をいただきキリストに呼び集められた人々の集まりで、エクレシア(教会)と呼ばれています。キリストの教会の土台は「信仰告白」にあります。


・教会が建てられ目的は
目的もなくイエス・キリストは教会を建てることはないでしょう。キリストは十字架に引き渡される前、弱い人を尋ね、病人を癒し、福音を伝えました。その働きをキリストの教会に託するために教会を建てました。マタイ28章19節に「出て行って福音を伝えることを」命じています。この場所で「あなたは」と単数で呼びかけたのではなく複数で「あなたがたは」と呼びかけています。「あなたがたは行って、あらゆる国の人を弟子にしなさい」と述べています。
イエスは、ご自身を救い主と告白し従っている人々、すなわちキリストの教会にたいして、「出て行って父と子と聖霊によってバプテスマを授けなさい」と命じられたのです。キリストの宣教命令は、キリストの教会への宣教命令です。ですから宣教の働きはすべて教会の働きとして行なっていきます。例えば牧師は、訪問やお見舞いするとき、それは牧師個人の働きではなく教会の働きの一つとして、教会のお祈りに支えられて行なっています。キリストの教会は、キリストのお体として目に見えないキリストの愛の働きを表現する器です。キリストを信じ集められた者たちがキリストのお体を担っていきます。聖書はクリスチャンの一人ひとりを、キリストのお体である教会の器官として語っています。その各器官がどのようにキリストのお体を形成していくのか、各器官のあり方をパウロは詳しく述べています。


・各器官として
Ⅰコリント12書12節以下。この個所には、キリストの教会に加えられた信仰者の調和が「器官」という言葉で述べられています。器官には、見栄えのよい器官もあり、見栄えのしない器官もあるとパウロが語ります。しかし「劣ったところをことさらに尊んで」(24)調和を保ってくださると述べています。キリストの体がこの世で生きるとき、キリストの体が分裂しては「証」になりません。よい宣教はできません。教会が建てられ、信仰者がそれぞれ各器官として迎え入れられたのは「各部分が互いにいたわり合うためです」(25)。そしてキリストの十字架の愛が伝えられるためです。

キリスト者は、「互いに各器官としていたわりあい」ますが、後日、信仰をいただいてキリストの教会に加えられ、迎えられて器官の一つとして数えられる人もいます。キリストに迎えられたひとりひとりは「キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(27)という言葉に生かされ、信仰者が互いに器官として信頼と尊敬によってキリストの教会を建てあげさせていただきます。

もし、キリストの教会に加わりたいと願う方がおいでになったら牧師に相談してください。

教会はキリストの教会です。キリストを信じ告白した人々の集まりです。キリストの教会はキリストの福音を伝えます。教会はキリストの愛で調和を保ち希望のある教会です。 

祈り。主イエス・キリストの教会の肢体として教会に迎えいれていただいたことを感謝します。肢体として証しつつ歩ませて下さい。主イエスの御名によって祈ります。
アーメン。

2008年8月5日火曜日

8月3日の礼拝メッセージ 「永遠のいのちをいただくために」 ヨハネ3:16

クリスチャンでしたら耳にタコができるほどに学んでいるお言の一つがヨハネ福音書3章16節です。この聖句は聖書の中の聖書と言われています。メッセージを要約すると「神は愛なり」です。聖書全体を富士山にたとえれば、その頂きです。聖書のすべてのメッセージはこの一点に向かっているといえるでしょう。

聖書には、聞きたくないような残酷な物語が書かれていて読んでいると嫌だなあと思うことがありますが、神の愛を知るとき心が平安になります。

「神の愛」とはなんでしょう。神は愛です、と聞きます。神の愛によって救われるなら、神の愛をしっかり受け止め、神さまにお従いさせていただきたいと思います。「神はひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあります。「世」とは何でしょう。ヨハネが語る「世」は、神さまに背く人々であり、神さまを失っている人です。いわば神さまに創造された人が、創造した神さまを知らないという人を「世」と言います。

創世記に、アダムとエバがいます。神さまに創造された最初の人です。二人は神さまにおことばに背きました。「とって食べてはならない」と命じられた木から食べてしましました。このときから、神さまがこわくなりました。二人は神さまの顔を避けて姿を隠します。悪さをする子どもが親から隠れたい。それと同じです。罪の負い目が、二人を逃げ隠れする者にかえてしまいました。神はアダムとエバを探して「どこにいるのですか」と真剣に探しています。迷子のなった我が子を捜す母親の姿のようです。

神に愛されたイスラエル。神に背を向けバアルの神に心をもっていきます。そのイスラエルに、神の裁きと、悔改めを預言者たちは語ります。預言者は、不信イスラエルの裁きの向こう側に「神の愛」を語ります。その姿は新約聖書ではその「愛」を、神はひとり子をお与えになるほどにして愛する愛として述べられています。「神はひとひ子をお与えになったほどに世を愛された」とヨハネは語ります。神さまは、御子イエスのいのちと引き換えに私たちにいのちを与えてくださいました。かけがえのない御子と引き換えにしても、私たちを神さまの御手の中に取り戻したかったのです。

Iペテロ2章24-25節「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
神さまは御子のいのちで滅びに向かっている者を救ってくださいました。
聖書は「ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで」と語っています。大切なことは「信じる」ということです。信じるということが条件のように聞こえますが、それは神の側に目を留めることです。神さまに背を向けていたらどれだけ愛されていても神と関係のない存在です。神が愛してくれているのに背を向けているのですから、関係を断ち切っているのは背を向けている本人です。背を向けることをやめて、神さまに振り返ることです。神さまに目を向ける。神さまに近づくことが「信じる」ということです。

「神は愛なり」。聖書の中心です。みことばの頂点です。この愛を示すために神は十字架のどん底まで下りてきてくださいました。この十字架に目をとめるのです。私たちに求められているのは、この主イエスさまを見て近づくことです。私たちはこの十字架のイエスさまの愛を受け入れ、近づくとき神の慈愛に照らされます。世を愛するために主イエスは来られました。それは私たち罪人を救い、永遠のいのちを与えるためです。キリストを受け入れるとき希望に生きることができます。すべての人々に、私に来なさいと主イエスは呼びかけて探しつづけて下さっています。主のもとに立ち返ろう。神に近づこう。

2008年7月27日日曜日

7月27日の礼拝メッセージ 「新しく生まれること」ヨハネ3:1-15

ニコデモは、イエスさまの時代、国会議員のような立場の人です。人々から信頼されていたでしょう。そのニコデモはイエス・キリストを尋ねて夜やってきました。彼は「老年」(4)になっていました。彼は、ユダヤの指導者として成功をおさめていたと思います。けれども老年になって自分の人生を振り返る機会が与えられました。


イエスという人が人々の注目をあびている。彼の教えには不思議に権威がある。以前体をななめにしてイエスの言葉を聞いたことがあった。真正面からイエスと話をしてみたい。そのように思ったニコデモは、夜、イエスのもとにやってきました。「先生、わたしたちがは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしは、だれも行なうことができません。」


ニコデモは、イエスの行なっているしるしを認めています。「神がともにおられるのでなければ」することができない、といいます。ニコデモはユダヤの指導者として活躍してきましたがイエスのようなしるしは出来ませんでした。そこでそのように語ったのでしょう。


イエスは、ニコデモの言葉を聞いて、心の深いところにある重いものを受け取ったのでしょう。イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3)。聞いたニコデモは戸惑います。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができますか、もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(4)と答えました。イエスは肉体のことを語ったのではありません。霊のことを語られたのです。


イエスは「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。霊によって生まれた者は霊です」(5,6)と答えました。「水と御霊」とは一言で言いますと、イエスを救い主と信じる信仰を言います。イエスはわたしの行なっている働きを見て、わたしを救い主と信じなさい、とニコデモに語られたのです。


説明しても理解できない。あるいはしようとしないニコデモに、ユダヤの民が奴隷の地エジプトから、神の恵みでモーセによって導き出された時のことを語ります。この話をニコデモはよく知っていました。荒野を40年さまよいます。ユダヤの民は指導者モーセに、肉がない、水がないと言って逆らいました(民数21:4-9)。そのとき神は神がおくった蛇にかまれ多くの人がなくなりました。民は不従順であったことを悔い、モーセに助けを求めます。モーセは神の命令に従って青銅の蛇を作ってさおの先につるします。その青銅の蛇を仰ぎ見た民は救われました。


その青銅の蛇と同じように、イエスご自身も上げられなければならないと言われました。それは十字架をさしています。ユダヤの民が神の約束を信じ、蛇を仰ぎ見て救われたように、十字架に上げられるイエスを信じ仰ぎ見るものは誰でも、永遠のいのちを賜物としていただくことができます。


主イエスは新しい生きる道を示してくださいました。新しい道です。いまどのような人生を歩んでいても、やり直しのきく人生が主イエスにあって私たちに開かれています。どんな状況におかれていても、もうダメだ、と言わなくてもいい道がここにあります。主イエスを信じ、十字架の購いを受け入れ、イエスの愛に満たされるとき人生は新しく始まります。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4:16)


変化には勇気がいるかもしれません。しかし信じる心も神さまがくださいます。「新しく生まれたいのです。生まれ変わらせてください」と十字架を見上げてください。そのとき新しくされている自分を発見します。


お祈り キリストのうちを歩ませてください。主の御名によって、アーメン。