クリスチャンでしたら耳にタコができるほどに学んでいるお言の一つがヨハネ福音書3章16節です。この聖句は聖書の中の聖書と言われています。メッセージを要約すると「神は愛なり」です。聖書全体を富士山にたとえれば、その頂きです。聖書のすべてのメッセージはこの一点に向かっているといえるでしょう。
聖書には、聞きたくないような残酷な物語が書かれていて読んでいると嫌だなあと思うことがありますが、神の愛を知るとき心が平安になります。
「神の愛」とはなんでしょう。神は愛です、と聞きます。神の愛によって救われるなら、神の愛をしっかり受け止め、神さまにお従いさせていただきたいと思います。「神はひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあります。「世」とは何でしょう。ヨハネが語る「世」は、神さまに背く人々であり、神さまを失っている人です。いわば神さまに創造された人が、創造した神さまを知らないという人を「世」と言います。
創世記に、アダムとエバがいます。神さまに創造された最初の人です。二人は神さまにおことばに背きました。「とって食べてはならない」と命じられた木から食べてしましました。このときから、神さまがこわくなりました。二人は神さまの顔を避けて姿を隠します。悪さをする子どもが親から隠れたい。それと同じです。罪の負い目が、二人を逃げ隠れする者にかえてしまいました。神はアダムとエバを探して「どこにいるのですか」と真剣に探しています。迷子のなった我が子を捜す母親の姿のようです。
神に愛されたイスラエル。神に背を向けバアルの神に心をもっていきます。そのイスラエルに、神の裁きと、悔改めを預言者たちは語ります。預言者は、不信イスラエルの裁きの向こう側に「神の愛」を語ります。その姿は新約聖書ではその「愛」を、神はひとり子をお与えになるほどにして愛する愛として述べられています。「神はひとひ子をお与えになったほどに世を愛された」とヨハネは語ります。神さまは、御子イエスのいのちと引き換えに私たちにいのちを与えてくださいました。かけがえのない御子と引き換えにしても、私たちを神さまの御手の中に取り戻したかったのです。
Iペテロ2章24-25節「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
神さまは御子のいのちで滅びに向かっている者を救ってくださいました。
聖書は「ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで」と語っています。大切なことは「信じる」ということです。信じるということが条件のように聞こえますが、それは神の側に目を留めることです。神さまに背を向けていたらどれだけ愛されていても神と関係のない存在です。神が愛してくれているのに背を向けているのですから、関係を断ち切っているのは背を向けている本人です。背を向けることをやめて、神さまに振り返ることです。神さまに目を向ける。神さまに近づくことが「信じる」ということです。
「神は愛なり」。聖書の中心です。みことばの頂点です。この愛を示すために神は十字架のどん底まで下りてきてくださいました。この十字架に目をとめるのです。私たちに求められているのは、この主イエスさまを見て近づくことです。私たちはこの十字架のイエスさまの愛を受け入れ、近づくとき神の慈愛に照らされます。世を愛するために主イエスは来られました。それは私たち罪人を救い、永遠のいのちを与えるためです。キリストを受け入れるとき希望に生きることができます。すべての人々に、私に来なさいと主イエスは呼びかけて探しつづけて下さっています。主のもとに立ち返ろう。神に近づこう。
2008年8月5日火曜日
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