2008年7月27日日曜日

7月27日の礼拝メッセージ 「新しく生まれること」ヨハネ3:1-15

ニコデモは、イエスさまの時代、国会議員のような立場の人です。人々から信頼されていたでしょう。そのニコデモはイエス・キリストを尋ねて夜やってきました。彼は「老年」(4)になっていました。彼は、ユダヤの指導者として成功をおさめていたと思います。けれども老年になって自分の人生を振り返る機会が与えられました。


イエスという人が人々の注目をあびている。彼の教えには不思議に権威がある。以前体をななめにしてイエスの言葉を聞いたことがあった。真正面からイエスと話をしてみたい。そのように思ったニコデモは、夜、イエスのもとにやってきました。「先生、わたしたちがは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしは、だれも行なうことができません。」


ニコデモは、イエスの行なっているしるしを認めています。「神がともにおられるのでなければ」することができない、といいます。ニコデモはユダヤの指導者として活躍してきましたがイエスのようなしるしは出来ませんでした。そこでそのように語ったのでしょう。


イエスは、ニコデモの言葉を聞いて、心の深いところにある重いものを受け取ったのでしょう。イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3)。聞いたニコデモは戸惑います。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができますか、もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(4)と答えました。イエスは肉体のことを語ったのではありません。霊のことを語られたのです。


イエスは「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。霊によって生まれた者は霊です」(5,6)と答えました。「水と御霊」とは一言で言いますと、イエスを救い主と信じる信仰を言います。イエスはわたしの行なっている働きを見て、わたしを救い主と信じなさい、とニコデモに語られたのです。


説明しても理解できない。あるいはしようとしないニコデモに、ユダヤの民が奴隷の地エジプトから、神の恵みでモーセによって導き出された時のことを語ります。この話をニコデモはよく知っていました。荒野を40年さまよいます。ユダヤの民は指導者モーセに、肉がない、水がないと言って逆らいました(民数21:4-9)。そのとき神は神がおくった蛇にかまれ多くの人がなくなりました。民は不従順であったことを悔い、モーセに助けを求めます。モーセは神の命令に従って青銅の蛇を作ってさおの先につるします。その青銅の蛇を仰ぎ見た民は救われました。


その青銅の蛇と同じように、イエスご自身も上げられなければならないと言われました。それは十字架をさしています。ユダヤの民が神の約束を信じ、蛇を仰ぎ見て救われたように、十字架に上げられるイエスを信じ仰ぎ見るものは誰でも、永遠のいのちを賜物としていただくことができます。


主イエスは新しい生きる道を示してくださいました。新しい道です。いまどのような人生を歩んでいても、やり直しのきく人生が主イエスにあって私たちに開かれています。どんな状況におかれていても、もうダメだ、と言わなくてもいい道がここにあります。主イエスを信じ、十字架の購いを受け入れ、イエスの愛に満たされるとき人生は新しく始まります。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント5:17)。
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています(Ⅱコリント4:16)


変化には勇気がいるかもしれません。しかし信じる心も神さまがくださいます。「新しく生まれたいのです。生まれ変わらせてください」と十字架を見上げてください。そのとき新しくされている自分を発見します。


お祈り キリストのうちを歩ませてください。主の御名によって、アーメン。

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