2010.3.14 礼拝メッセージ「絶対的な祝福」創世記28:15 東 正明牧師
本日のお言葉はAさんが、新年にいただいたお言葉です。
聖霊によっていただいたお言葉ですから、その通りに信じて、受け入れて、感謝して、歩むことが祝福の基です。「そうです。この言葉を信頼します。」と進むとき祝福を経験します。
ヤコブは、ベエル・シェバに旅だちました。
ヤコブを愛する母リベカによって、兄エサウにかわって、父からの祝福をよこどりしてしまいました。横取りされたことを知った「兄エサウ」は、ヤコブを殺したいと思うほど憎みます(創27・41)。
母リベカは、愛するヤコブを、自分の兄のラバンのところに逃れさせます。そこは「ハラン」という所です。ハランに向かっている道中での出来事です。一日中歩いてきました。疲れました。「石」をまくらにして休みます。
ヤコブは夢をみました。10節からお読みします。
28:10 ヤコブはベエル・シェバを立って、カランへと旅立った。
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
この夢を見た場所を「ベテル」と名ずけます。17節で、ベテルを「神の家」「神の門」だと述べています。
19節では、以前はルズであったが、ヤコブは神の祝福によって「ベテル」と呼びました。ベテルそれは神の家、神の門なのです。
ヤコブは夢の中で、天から地に届く「はしご」をみます。それは不思議なはしごです。普通は、はしごは、高いところに上るためにあります。誰でも「はしご」は、下から上に向けて立てかけます。
はしごは低いところから高いところに上るためにあります。しかし、この場所にかけられている「はしご」は天から「地に向けて立てられて」いました。不思議なはしごです。不思議な情景です。上から下に向かってかけられていたのです。
宗教のことを考えてみましょう。
世界中に多くの宗教があります。この世の宗教は、人間が努力して、良い業をして、立派に生きて、救われなさいという宗教です。神に向かって「努力・良い業・立派に生きること」をしなさいという教えです。それは人間が自分の「救いのために」天に向かって「はしご」をかけるようなものです。
犬や猫は永遠を思わないでしょう。動物は神のことや、救いのことを思わないでしょう。人間は神によって創造されましたので、永遠を思う思いが与えられました。神によって「いのちに息」を吹き込まれたものが、神に生きるものとして創られた人間だけが永遠を思うことができるのです。けれども、自分を生きる者に創造してくださった、まことの神を知らないので、「永遠を求めて、神を求めるために、様々な宗教を生み出しています」。宗教をつくるのです。人間がつくる宗教です。
「成長の家」という宗教があります。成長の家は、世界で一番すぐれている宗教だと彼らは言っています。どうしてか、というと、仏教の一番いいところ、キリスト教の一番いいところを、教祖が選んで作った宗教だというのです。皆さんそうだと思ったら、その宗教の罠にかかります。自分が選んだ宗教というのは、ジャスコにでも行って、「自分が、自分に合う服を選ぶようなものです。」選ぶ者の方が選ばれるものより上です。ものを選ぶ時、選ぶ人の価値観で選びます。選ばれるものの方が選ぶ者より低いのです。たとえば教祖さんが、自分の価値観で選んだとする場合、選ぶ側が神より上です。選ぶ側が、神より上ということはあり得ません。選ばれた神は人間以下になる事になります。これでは神は人を救えません。救えない宗教を作って、「はしご」をかけさせようとしています。
いずれにしても、誰でも人間が永遠をもとめています。それは宗教によらなければ手に入らないことを知っているからです。まことの神を知らないために、自分で宗教を生み出しているのです。
こうした人間の「はしご」は天に届きません。どれだけ長いはしごを持ってきても天にとどきません。
神が天から地に向けて「はしご」を伸ばして下さったらどうでしょうか。神が下に伸ばす「はしご」は、地に届きます。
天から地への、「はしご」のことを思いめぐらすとき、私は「主イエス・キリスト」を思います。「わたしは、道だ、真理だ、命だ」とおっしゃるイエスさまを思いました。主イエスは、天から私たちのところに救いの道として下って来て下さいました。
ヨハネ15・16主イエスさまは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」と語っています。
救いのために、選んで下さったのは神であって、私たちが選んだのではありません。神が人間の上にあります。神は選ぶ存在。人間は選ばれて救われるのです。
神は、はしごを、天から地に立てかけて下さった。私たちは、天から下って来られた、主イエスさまを知っています。クリスマスです。神は、人となって私たちのところに来て下さいました。上から下への「はしご」となってくだしました。ヤコブは夢の中で、神の使いが天からはしごを上り下りしているのをみました。
ヨハネ1:51に「 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」といいます。
人の子、それは主イエスさまです。 主イエスさまの上を上り下りしているのです。ヤコブが見た天からの下ろされた「はしご」は人の子、主イエスさまなのでしょう。
主が、13節から15節の祝福を約束されました。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
ヤコブは、夢から覚めると、夢をくださった神に応答しました。このベテルでの体験は、ヤコブにとって新たなスタートとなります。ヤコブは、一人ぼっちの荒野で神をあらためて知ることができました。
ヤコブは、これまで、父イサクから神様について聞かされてきたでしょう。ですから神のことは知っていました。神さまは祝福してくれるとことも知っていました。けれども、神の生きた体験を知りませんでした。
神さまは、天からはしごを下ろして、神の存在を見せてくださいました。ヤコブは神との出会いを経験をしたのです。その経験を通して「神」が生きておられると知りました。「神」は、祭壇のある父の「ベエル・シェバ」におられると思っていました。神は父イサクの神だ、と思っていたのです。
ところが、神は、一人ぼっちの荒野にもおられ、「ハランに逃ようとしている」そのような自分に関わりを持って下さることに驚きを持ちました。ヤコブは、神は「いらっしゃる」と荒野で叫んだにちがいありません。
神は、祖父アブラハムの神、父イサクの神であるだけではなく、「私の神」ともなって下さったことを知りました。ヤコブの神となって下さいました。ヤコブは父母を離れて、宿がありません。無宿人です。枕は「石」ころ。そのような場所にいます。さびしい場所。辛い場所。悲しい場所。味方もいません。しかし、この厳しい場所で、「安らぎ、くつろぐことのできるわが家」を見出したのです。
「28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
「わたしが、共にいる、わたしは決してあなたを捨てない」と、お語り下さる神ご自身を、ヤコブは自分の住まいの場所として見出しました。彼はこの場所を「ベテル」=神の家と名づけました。
詩篇90・1「主よ、あなたは世々にわたって、私たちの住まいです」とモーセは語ります。神が私たちの安全な住まいの場所です。
多くの方は、孤独であることを恐れます。誰かとつながっていないと怖いのです。しかし、本当の孤独の中で、神と出会うのです。一人祈り、神に向かう時、神に出会うのです。神が、私たちのまことの住まい、それは決して古くなりません、日々に新しくなります。神は裏切りません。崩れていきません。私たちを見下す事もありません。神にある本当の住まいは暖かい安らぎがあります。ヤコブは、一人ぼっちでいましたが、ベテルで平安をいただきました。私たちも神に出会う時に神の平安をいただけます。
28節「決して捨てない」とおっしゃってくださる方は、私たちの力ある神です。
この方が、マタイ6章34節を語るのです。6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。とお語りになります。「明日のために心配は無用です」。主のお言葉です。信じて受け入れて歩んでいきたいと思います。石ころを、まくらにしなければならないようなことがあったとしても、神はヤコブに与えた祝福を私たちに与えて下さります。ヤコブに与えた平安が私たちに向かっています。主の言葉は真実です。私たちは主にあって、「今日を生きさせていただく、それだけを考えるのです」。マタイ6章31~34節をご一緒にお読みいたしましょう。
主が共にいてくださること、それは絶対的な平安です。
「わたしが、共にいる、わたしは決してあなたを捨てない」といおっしゃって下さる主に今週も心を向けて歩ませていただきましょう。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であり、ヤコブの神が、私の神なのです」。そのように信じてヤコブの次に自分の名を入れて神を信じるのです。私たち教会は知多市にとって「ベテル」です。「神の家」「神の門」なのです。
常滑・原においても私たち教会は「神の門」と呼ばれるのです。
[祈り] 人々は、私たち教会を通して「神」に出会っていかれますように。主の御名で。アーメン。